80's SURFER DISCO 70年代後期~80年代初期に栄えたサーファー系ディスコ回顧録。当時の音楽やファッションを徹底検証!


◆NOTICE !

はご覧になりましたか?

この先を閲覧される方は内容に同意されたと見なさせていただきます



最後まで読み終えるには少々時間を要します
できれば余裕のある時に当時の音楽を流してくつろぎながらご閲覧くださいませ

イラスト部分は未完成なので徐々にUPして行きます


新宿エリアの光と影


サーファー時代をメインに思い出を綴る本HPですが

サーファー時代が訪れるほんの少し前に

映画「S.N.F.」のディスコブームがありました

この時代は当世代のディスコを語る上で重要な体験ゾーンとなっています

この最盛期をどこでどう過ごされていたかで

今後のサーファー期への接し方が大きく左右されてくる部分であります

まずはサーファーが流行する直前のディスコから振り返ってみます

この時代のディスコと言えば新宿歌舞伎町でありました

残念な事に「新宿と歌舞伎町ディスコ」に対して

強いアレルギー反応を起こす方がいるようで

映画「S.N.F.」の最盛期すら拒絶されているようです

確かに78年の大衆化以前は

全般的にあまり治安がよろしくなかったです

若さ有り余った不良達の鎬の削り合い場といった性質があり

彼等に抑えの利くような遊び人以外は

喧嘩売られやカツアゲなど覚悟が必要です
(女番長、ズベ公もいるので女性も例外ではない)

せっかくダンスレベルの高い評判のお店もあったそうですが

「恐くて行けない!」のが現実です

純粋に遊びたいオシャレしたい踊りたい人達は

比較的安全な大人の街六本木、赤坂の箱へと

流れて行く結果となったわけです(未成年はハジかれます)

新宿=グレた未成年や不良の溜まり場

六本木、赤坂=オシャレな大人の遊び場

といったような図式が出来上がってしまい

新宿から退避して来た客層から悪い評判に拍車がかかったようです

サーファー時代に至ってもその不評は継続し続け

実際行ってもいないのにマイナスイメージのみで語る人

選んだ店が悪かったのかその1回で全てを否定する人

新宿という土地自体を生理的に嫌う人

その風評は様々あります

では1978年「S.N.F.」時代は実際どうであったのでしょうか?

大箱到来時代になってから客層は変わりました

不良や族の溜まり場というイメージは一掃され

一般人が安心してオシャレして

自由に踊れる場所へと変化を遂げたのです

ステップ時代では一見客お断りの雰囲気が強くありました

やはり映画「SNF」の影響は大きかったのでしょう

「自由に踊れる」という変革が

多くの一般客を呼び込む結果に繋がったのだと思います

満員で膨れ上がったギャラリーの中で

煌びやかなダンスコンテストやプロのショータイムも時々行われたり

ディスコの醍醐味を沢山体験する事ができました

当時「フィーバー」という言葉が流行語にもなりましたが

本当にこの意味を体感し言っている人どのくらいいるのでしょうか?

あの土曜の夜の熱気はその場にいた者だけしか解らないはずです

78年暮れでは年末年始特別料金にもかかわらず

連夜満席になっていた勢いがありました

これが78年の歌舞伎町最盛期の所以です

さらに詳しく
はこの時代の歌舞伎町を

等身大で内部リポートしました次項をご覧ください





▲最上部に上がる


私の見た歌舞伎町(飽くまでも主観です)


それでは
サーファー時代直前

私が実際見て体験してきた事を少々振り返ってみます

これからお話しする事実を読んでいただき

「新宿」を皆さんご自身で判断ください

時は1978年

青春真っ盛り18~22歳世代の若者を中心にオシャレをして

ディスコに繰り出す事がある種のトレンドとなっていました

未成年もいましたがこの頃のメインはヤング社会人

美容師、服飾関係の専門学生も多かったです

元不良らしき人はトゲトゲしさを払拭し

喧嘩や鎬を削りに来るような事はありません

店自体が暴力を許さない雰囲気になっていたのです

ツッパリと言われたファッションから

コンチと言われるヨーロピアンスーツに先の細いコンビシューズ

を上手に着こなしていました

時の象徴が「トラボルタ風ファッション」

純白のパンタロン式スリーピーに黒のイタリアンシャツ(超目立っていた)

ボディコンシャスなドレスシャツをアウターズカラーで着こなす

ボトムはフレアーラインのパンタロンと

ヒールの高いプラットホームシューズの組み合わせ

そこまでしなくとも

「JUN」「DOMON」「NICOLE」といった

ヨーロピアンカジュアルで決める者

サファリ帽に渋柄のアロハシャツに白の麻パン

布地のサンダルタイプのシューズといった遊び人スタイル

秋にはアーガイルのベストかセーター

コーデュロイのパンツにブーツの組み合わせが人気

これが当時の男性ディスコファッションだったと思います

華であった女性のスタイルもそれぞれで

フラッパーヘアにチューブトップと

ファンシーパンツ
(主にブティック勤務のおねーさんか?)

「BIGI」「BA-TSU」のレザーパンツにサッシュベルト

白のドレスシャツにクロスタイといった

当時の正統派「ディスコ・レディ」ファッション

モード系の方もかなりいました

原色のサテン生地でまとめたテクノポップ調ギャル

一番目を引いたのが「KENZO」の

パイレーツや民俗ファッション(実は男女共用)

アイパッチや黒の丸目サングラス、肩がけのアクセサリーが特徴

「アニーズ」もディスコファッションとして人気でド派手なミリタリー系や

極広で黄金のファンシーパンツは正にディスコクイーンの鑑でした

今は無き新宿「鈴屋」と「三愛」はディスコファッションの宝庫

しかしこれらはハンパでなく高い!

専門学生やブティック店員のバイト代では

高嶺の花だったと思います

自分でデザインしてこしらえる方も多くいました

雑誌に着せられるのでなく己の個性を活かす

本当にこの時代の方はセンスレベルが高かったです

その後「道楽屋」「後ろの正面」「竹の子」など

原宿系ブティックが登場し(竹の子族発祥以前です)

庶民価格で提供されるようになりました

更に後にこのブティック「竹の子」が

あの「竹の子族」の代名詞とされ

次世代へと受け継がれて行きました

ウンチク講座
当時はパリコレから飛び出して来たような衣装で
普通に街を闊歩していた人がいました
この系統のファッションを全部「竹の子族」と
一緒くたにしてしまう人がいるようですが
世代もダンススタイルも選曲ポリシーなども「竹の子族」とは違うのです
オカマファッションというディスコ文化が先にあり
78年の新宿「ツバキハウス」「ミルキーウェイ」「スキャット」といった
オカマダンサー達のメッカがありました
常連達はよく原宿ホコテンで踊っていましたが竹の子族ではありません
LATE70のディスコファッションの先駆者なのです
ファッションショーからそのまま出てきたような衣装で
競い踊るのがディスコの光景です


その他にも

メルローズなどのド派手柄の

ビッグショルダーワンピにワッチキャップ

リポンタイに麻地のパンツ(スカート)に

ベストといったan-an系の装い

黒人ダンサー風のファッションもありました

もちろんSOULTRAINダンサー達が手本でしたが

日本では独自のファンキーというスタイルもあって

関西人の「祭り法被」の着用は伝説となっています

当時JUNとコラボされたSOULTRAINのT-シャツや

イタリアンカラーの茶系のSOULシャツ(SNFの影響)

ベルボトムジーンズかバギー(ハイウエストが人気)パンツ

航空バッグにアフロレイキを忍ばせ

セルタイプのティアドロップ型サングラス

冬にはファーのブルゾンやスタジャン

厚底スニーカーといった出で立ちがファンキーダンサーの基本

因みにファンキーダンサーを模した?某芸人は一切関係ありません

ウンチク講座
ファンキーダンサーの中でも曲のこだわり
ダンススタイルの違いがそれぞれあって
飽くまでもFUNK曲にこだわりSOULTRAINダンサーを
追求される本格派な方達と
「SYLVESTER」「DONNA SUMMER」「DAN HARTMAN」
といった当時ヒットのアップナンバーで
弾ける日本式のファンキーダンサーと分かれていました
現代では上記の曲など別のカテゴリーに置かれてしまい
ファンキーダンスとの結びつきが理解不能とされているのが
現状です


モード系とは一線を画したこれぞ時代が生んだ

純正ディスコファッション「オカマ」

第一世代では今で言うコスプレに近いファッションで

男性はメークを施し要するに「オネエ系」な方が多かったので

このような呼び名が付いたと思われます

パイレーツやアラビアン、カシミールなど

自己縫製されていたのではないでしょうか

ダンスも実に個性的で観ていて楽しかったです

今振り返ると凄いハイセンスな時代でした

第2世代になると

渋谷ファイヤー通りの「文化屋雑貨店」のオリジナルバッグを

肩掛けにして「MILK」の水玉シャツに原色のパンツ

小学校の上履きで履いたバレーシューズ

斬新で奇抜、ある意味で常に最先端を行っていたと思います

髪は「ハミルカット」「テクノカット」といったモミアゲバッサリ

彼(女)等に関しては殆どの雑誌が取り上げておらず

後のホコテン「竹の子族」だけにスポットが集まり

いかにディスコの内部で

取材をしていなかったか非常に悔やまれます

今となってはオカマダンサーのOB & OGだけが情報源です

こういったファッションで靖国通りを横断し

歌舞伎町へ向かう若者達の大行進は

土曜日の夜の風物詩でありました

既にご存知でしょうがこの時代のディスコは中~大箱が人気で

大勢収容できるお店で発散するのが主流だったのです

これらオシャレした一般客を中心にして

2つの大きな趣向が共存していた事実を知っている方は

正に時代の同級生であり貴重な歌舞伎町最盛期の生き証人です

前出の「ファンキー族」と上の「オカマダンサー」達がソレでした

大抵両者共どの店にも常連が住みついていたものです

片やアフロヘアにカーリーヘア

またはリーゼントパーマ
(ツッパリの名残だが落ち着いた人ダンス上手い)

片やテクノカットにハミルカット
(ファション業界の端くれ多し)

曲もファッションもダンスセンスも全く噛み合わない双方

当時はお互い思うところはあったでしょうが暗黙のルールがあり

露骨ないがみ合いなどはまず起こしませんでした

それどころかマナーの悪い客が現れたりすると

同じお店の常連として自治活動も協力し合っていたものです

ダンスの上手い人の噂やお店の情報交換なども頻繁に交わしていました

しかし趣向としては対極でありシビアであった事には変わりません

DJのMCと選曲技量がまるく治めて事も忘れてはいけません

通称「オカマタイム」「ファンキータイム」といわれた選曲の区切りが設けられ

お互い行儀良く出番待ちをしていました

※ウンチク講座
オカマ達のフェイバリット曲はミュンヘン系ディスコやメロディアスダンサーといった
ファンキー系とは対極的な選曲で踊っていました
とにかく新曲に敏感で彼等が先駆けて踊り捲くった曲は殆どが後に大衆ヒットしてました
ある意味ディスコフロアヒットのトレンドメーカーでありました
キャンディポップは「竹の子族」世代になってからが本格的ブームです


この時代のDJはサービス精神旺盛で

選曲は実に幅広く全ての来客者に対応させているように

見事な配分がされていました

この時代を体験した誰もが多くの選曲を耳にし

他人の趣向の存在や共存のマナーを学ばされたはずです

特にファンキー、オカマといった両極にいた方はお互い「苦手な曲」でも

不平不満はもらさずにこの時代を受け入れ楽しんでいたのです

中には「RING MY BELL」など共用のヒットもいくつかあり

フロアで競演する不思議な光景も見られました

当時の営業面でも大箱であるが故に

特定ジャンルに絞ったりお客を限定する事は自滅行為になったのです

新宿歌舞伎町ディスコでは学んだ事も多くあり

実際あの異常来客数と狂喜的な大盛り上がりは2度と味わえないでしょう

呉越同舟なしで大箱文化はあり得ないという事です


そのどちらでもない中にドレスシャツにパンタロンといった

トラボルタ風の装いをした

ひたすら派手に踊り捲くる(ファンキーとも違う)ディスコダンサーな方も

目立っていました

更にはプロのダンサー志望や芸能志望の方など

同じ時代を過ごしながら感性が異なっていて

ダンススタイルもファッションも独特で流行を嗜むというよりも

明日を夢見てレッスン場代わりに利用していた風でした

アップナンバーになると彼(女)等のショーの始まりです

ファンキーダンサーに挑んでくるツワモノもいました

現代では復刻ディスコに来るディスコ素人の遅咲きミドルに向けて
ダンスインストラクターを受け持たれている方もいるそうですが
当時ない後付けダンスや新造ステップの発信源となっていたようで
オリジナル主義な方達との間で物議をかもしていました


そんな歌舞伎町のブームもサーファーという次なる文化の誕生によって

核となっていたトレンドリーダー達がより濃い趣向を求めて

大挙六本木へ移動してしまい

呉越同舟の法則はハイエナvs.ブレイカー世代に受け継がれ

ワンジャンルなユーロビート時代には過去の遺物と化していました

新宿も歌舞伎町も次の世代に移っていたのです

六本木や赤坂は新宿と別のディスコ文化があり

オシャレを知っている大人の遊び人でないと入店は困難でした

コンチ&モード、ファンキー系の新宿に対して

トラッドやコンサバ、アイビー、

落ち着いたヨーロピアンカジュアルが主流の

六本木、赤坂

色々な意味合いを含め双方共に

対抗心とプライドがひしめき合っていたのです

そして六本木はサーファー時代を迎えるのでした

歌舞伎町ディスコで遊び学び成長し

後の六本木サーファーディスコに挑んでいった者達と

歌舞伎町を知らない六本木族の学生達が混ざり合って

巨大な文化に発展したのであります

それでは
サーファー視点から年代別に移り変わりを振り返ってみましょう





▲最上部に上がる


開拓の1978年という時代


ディスコという視点からサーファーはまだ流行ではありませんでした

まだ圧倒的にヨーロピアンファッションが大半を占めていました

しかしディスコの外では本格な波乗りは注目され始め

サーファーファッション発祥であった大阪からの流れも強く

湘南サーフボーイやギャル達は雑誌でも

よく取り上げられるようになりました

「GODDESS」「BOLT」「AIPA」「COSMIC」「MOSS」などを中心に

ボードだけに留まらずファッションとしても注目されるようになり

あの「コンブキッド」のキャラクターもこの頃が始まりだったのです

六本木の「メビウス」「フライデー」「インフィニティ」

「グリーングラス」といったディスコでは

サーファー達の遊び場として利用されるようになり

自然と溜まり場化してきたのです

この頃の六本木は平均22歳という新宿より高い年齢層で

女性客は初期JJなどエレガント系と「an-an」「non-no」系に

時折モード系が混じっていました

ブラック選曲の強いお店ではファンキーダンサーな姉御もいました

男性客はもっと年齢層高めだったと記憶しています

当時人気のブランド「ピエール・カルダン」「イヴ・サンローン」といった

スーツを着こなすジェントルマンやブルックス系のトラッド

アイビーやプレッピースタイルが多かったです

そういった大人の社交場に野人のようなサーファー連中が

押し寄せてきた現象を快く思っていないお店や

お客も多かったはずです

集団で来て飲んで酔って騒ぐは暴れるわで・・・

増殖率と溜まり場と化は時間の問題でした

関西方面ではサーファーは既にトレンド化されており

東京でブレイクするのも時間の問題でした

DJの中にもサーファーを先取りしている人が既にいました

ロン毛に口ヒゲという風貌に小花のシャツと

サーフパンツといわれるハイウエストの

ブリーチフレアジーンズを穿き

大きなダイバーズウォッチを装着していました

このような六本木の流れからでしょうが

週末の新宿の大箱でも

真っ黒に日焼けしダンスの上手いオネエギャル達が現れました

髪は潮焼けしたレイヤーのロングでアロハにサーフパンツといった

ワイルドな出で立ちでフロアを圧倒していました

いよいよ大きく時代は動いてきたのです

この頃溜まっていたサーファーは坊ちゃん大学生というよりも

根っからの遊び人や不良あがりなどが多くいました

しかしこの時代のサーファーは見せ掛けの「陸」などおらず

真剣に波乗りをやっていった本格派の若者ばかりでありました

六本木はエレガントな大人の社交場からワイルドな野人達の狂宴と

踊れるスポーツ学生達の聖地へと移り変わり始めました

いよいよサーファー時代の幕開けのであります




▲最上部に上がる


★トレンドを勝ち取るために


サーファー時代になって流行の変異を感じ取った

ヤンチャしてた人達が「ツッパリ時代」の終わりを悟り

必死にサーファー系のボーイ&ガールにイメチェンするために

情報を収集していました

時代は爽やかスポーツマンがトレンド

外見だけではなく中身も改革しないと取り残されてしまいます

彼女をつくりたい(波乗りなどの)友達を増やしたいのならば

「時代の風を読むべし」でありました

なにせ時のJJ&FINEガール達の一番苦手がツッパリ(不良)でした

ナンパなんてもってのほか

同じ店にいるのも許されないほど嫌がられていたのです

モチロンこの時代のワルなサーファーもいましたが昔と質が違います

時代は変わったのです

不良とはほど遠い「お坊ちゃま」や「スポーツマン」がモテモテの時代

ツッパリ文化と呼ばれた話題は一切NG
(ボンタン・集会・シャコタン・リーゼントに剃り込み・パー券・ロンタイ・チャイナ・コンポラ等)

暴走族から本格サーファーに変貌した海の戦士も多くいました

ディスコをデビューした年代によって様々な解釈がありますが

サーファー時代に至っては既に過去の出来事であります

当時の一光景
サーファ時代になって六本木の人気箱をいくつか周ると
かつて歌舞伎町で見かけたオカマダンサーが見事にサーファーに化け
常連面している光景を幾度となく目撃しました
中にはこの事実を隠して生粋の六本木人を気取り
歌舞伎町批判をする恩知らず人間もいたようです




▲最上部に上がる


決定的な1979年という時代


78年では「サタデーナイトフィーバー」という映画の影響で

ディスコの大ブームが起こりました

この年79年には「ビッグ・ウェンズデイ」という

サーフィンをテーマとした青春映画が若者を中心にヒットしました

78年には「ハウゼ・ブラ」という本格派のサーフィン記録映画が

サーファー達の間だけにヒットしましたが

「ビッグ・ウェンズデイ」は多くの一般人に影響を与え

波乗りを始めたいという若者達が急増したのであります

事実大学生を中心に多くの若者が

波乗りを始めまたのが79年なのです

その勢いは留まらず湘南エリアのトレンドである

洒落たサーファーショップが都内にもオープンしたり

レアであったサーフィンの記録映画を流すパブやレストランも増加

サーファー人口はどんどん増え

こういった若者が大挙ディスコ進出によってサーファーブームに

更に拍車がかかりました

スポーツブームの勢いはサーフィンだけに留まらず

スイミング、テニス、ゴルフにマリンにスキーといったものが

大学生達やOL達に爆発的人気を呼んで

サークル活動やスポーツスクールも大変盛り上がっていました

それぞれのスポーツファッションブランドも人気で

特に海系のブランドは

必要不可欠なアイテムとなっていたのです

サーファーと並行してブームになったのが

「JJ」系と呼ばれたニュートラファッション

これは神戸の女子大生お嬢様方の清楚な

ステータスイメージとされ一躍注目され

東京に飛び火するのも時間の問題でした

サーファー系を「FINE少女」と呼ぶならば

エレガントなお嬢様風が「JJガール」といった感じです

東京に元からあったトラッドと溶け合うかたちで瞬く間に浸透し

女子大生だけではなくOLや家事手伝いの箱入りお嬢様達にも受け入られ

トリコロールカラーのセーターや鎖模様の派手シャツ、金ボタンのブレザー

シャネルのスカーフにヴィトン、ディオールのボストン、クレージュのショルダー

ロングレイヤーでキメたヘアスタイルやブルーのアイラインで強調した目元

健康的に日焼けした頭部はそのまま着替えれば「FINE少女」に変身できます

スポーツ人気の時代も後押ししてかテニスやゴルフ、マリンなどで

ニュートラのバリエーションはとても豊富にこなせました

時代が必要なファッションを求めたのが

横浜発のもうひとつのトラッド「ハマトラ」

ハマの老舗「フクゾー」「ミハマ」「キタムラ」は3種の神器

日本全国からこれらを求めてキャンパスギャルが集まって来ました

テニスラケットを持って街を歩くハマトラギャルは当時の象徴でもあります

ハマトラの装着寸評
ハマトラの基本はフラットヒールのカッターシューズ
背丈と体形は誤魔化せません
今になってスカート丈が思ったより長かったのは意外でした


78年に出没したようなサーファーギャルも増殖し

ディスコ以外でも多く見かけるようになりました

へそ出しの花柄ショートブラウスやひも通しのサーフパンツなど

ウンチク講座
当時のパンツはハイウエストでいかに胴を短く見せ足長にするかが
オシャレのポイントでありました
従って現在のローライズのように無条件でヘソが出るパンツはありません
上着を短くして腹を出すが正しい表現かも
ハイウエストのサーフパンツやジーンズには当時の魂を感じます

よりワイルドでトロピックなギャルがひと際目立った時代です

航空バッグも流行で花柄のジャンプスーツとピーサン

ひまわりの大きなイヤリングの組み合わせは夏のキラーパターン

男性のサーファーではアダルトなアロハやライハイナシャツ

小花柄シャツ、サーフブランドのTシャツ

ハイウエストのサーフジーンズに

当時無名のNIKEジョギングシューズ

トラッド系ではラコステのポロシャツにファーラーのホップサックや

フィラのシャツにギンガムチェックのフレアにデッキシューズ

ディナージーンズにトニーラマ、アイビーブレザーといった

78年の野人よりもファッションが洗練されていた事で

「シティサーファー」なる呼び名も使われだしました

当時の光景
当時よく見かけた年齢不詳の男性客
今では考えられない大きなセルフレームのメガネに口髭
オッサンくさいブレザージャケに得体の知れないスラックス

ハンパなロン毛でやたらキザ
どう見ても学生ではない
以前からの常連だろうか??


時のトレンドファッション誌から「ポパイ少年」とも言われ

こういったスポーツファッションやトラッド系ファッションを基調にした

若者達がディスコに集い出し

この年六本木にオープンした「キサナドゥ」が時代の頂点を極めました

このシティサーファーやJJ系の流れは瞬く間に六本木を制圧し

洋菓子店からレストラン、パブまでトロピカル化し彼等を虜にしました

サーファーとトロピカルブームはこの夏最高潮だったのです

新宿でも「カヤン」「シャンバラ」「シャンゼリゼ」といったお店が

このブームを察知し客層は六本木には適いませんが

新宿に集まるシティーサーファーを集めていました


六本木での選曲はシティ・サーファー好みのものだけに厳選され

特に海やLA、ハワイなど海のイメージがある曲は率先して流していました

この時代の人物現象として

オカマやっていた子が必死に髪を伸ばしサーファーへ

コンチでキメていたリーゼント君がおかっぱ頭で真っ黒サーファーに

金髪で赤のスィングトップにロンタイでミュールをカツカツさせながら

踊っていたズベねーちゃんがセクシートロピックギャルに大変身

こんな常連達の変身が次の年には当たり前のように起こりました

サーファーには行けずにニューウェイブのツートンや

テクノミュージックに関連するファッションへ進む方もいました

この年にちょっとしたフィフティーズのブームが起こり


ローラー族やポニーテール、ビッグT、ボーリングシャツに

水玉のギャザースカートが目立ちました

80年に入って竹の子族との原宿ホコ天での合戦は有名に

チューブトップにハーレムパンツのディスコレディは過去のモノとされ

六本木ではもう見かける事はありませんでした(外人はいたかも)

よりコアな流行を求めて聖地六本木へ移住してしまった

トレンドリーダー達の抜けてしまった歌舞伎町では

ローティーンが増加し

明らかに流行に取り残されている人や

普段着もオシャレ着も関係ない無頓着な人

ナンパしか能がないエロ野朗

上京学生達のコンパ

飯屋飲み屋の代わりにしているような飲み食い放題族などが

増えてしまい様相が変わってしまいました

「B&B」「PUKAPUKA」の登場で盛り返しますが

後のDCブランド時代の到来までは混沌としていました








▲最上部に上がる


定着の1980年という時代


79年からサーファーブームはより加熱して80年代の幕は明けました

六本木では「ポパイ少年」「JJギャル」「FINE少女」が8割を超え

文化として認められる巨大なモノとなっていたのです

スポーツブランドに身を固めた大学生&OLが圧倒数で

スポーツ実践の話題が出来ない者は相手にされない時代でした

エンジェルスフライトはこの年が最盛期でこの時代着用していない人は

まずいないと思います

トラッド系トレーナーやサーフブランドのトレーナーも絶好調で

ディスコで同じトレーナー着ている同じ背格好の子と

友人を間違えてしまうというハプニングも幾度なく味わされたものです

サーファー聖地と化した六本木とは別に

当時OLの街として知られていたのが「渋谷」

ディスコ不毛の地と言われていた渋谷センター街を宇田川方面へと

集団で闊歩するFINE&JJギャル達の大きな流れがありました

そんなギャル達の目的地がセンター街を抜けた先にあった

渋谷サーファーディスコのメッカ「スターウッズ」です

この大行進はちょっと名物でもありました

一方六本木では「キサナ」が改装したり

「メビウス」が「レオパードキャット」に生まれ変わり

2階ふきぬけの「マジック」がオープン

サーファー時代は華僑へ向かっていきます

当時はあまり意識していなかったので気に留めていませんでしたが

例のクリスタル族の舞台となったのがこの年のようです


78年の呉越同舟など知る由もない人達がディスコデビューし始め

ディスコに対する意識も大きく変わってきました

趣向の多様化に応じてか時代は聴きたくない音楽は聴かず

ファッションセンスの違う子達とは同席したくないという

仲間意識と心地よさを求める時代になっていたのです

男性客はポパイ&サーファー系でないと

入店拒否される動きもありました

こんな時代の流れを受けて冷や水を浴びせられたのが

ヤンキーな人達でした
(70年代のツッパリに対して80年代のヤンチャ)

目敏いヤンキーは危機感を抱きサーファーへとイメチェンしていました

この時期見られた特異現象として

髪はパンチで服だけスポーティーとか(ゴルフはヤバイ)

ド派手なヤンキー・アロハにエンフラはいて靴がエナメルとか

服だけトロピックギャルでメイクがレディースのまま

完璧に外見はキメていてもタバコがブンタやショッポ

拳に根性焼きの痕

使うライターが花札柄だったりと

変身過程が中途な人が多くいました

ヤンキーアレルギーを強く持つ当時の女子大生の厳しいチェックを

受けていたようです

彼(女)等も流行にのるために必死だったのです

サーファー以外の文化では

オカマ~ツートン・ニューウエイブ~テクノ、カラス族へと変化

ハロホリ世代の竹の子族が最盛期に原宿でのパフォーマンスは圧巻

この年ルービックキューブが大ヒットしディスコ店内でも

アチコチのテーブル席で行われ

踊ってくれないお客にDJがMCでキレた事もありました(笑)




▲最上部に上がる




サーファー時代でのBLACK系DISCO事情


サーファー時代にも根強い人気のあった本格派のBLACK系DISCO

サーファーファッションという部分では共通性がありましたが

ファッションは同系に見えても求める趣向が違っていました

当時の私はBLACK系DISCOに通い詰めていた時期もあり

客層やファッションチェックは今でも鮮明に覚えています

サーファー系のディスコから移住してきたような

より濃い音と本格的なダンスを求める若者や

元からずっとクロ一筋のSOULな方

単にミーハー嫌いで足の速い曲や白人の音楽はNO!といった人達など

店内はブラコンとド・ファンク一色でした

サーファーとの違いはサーフィンやスポーツを嗜むというより

純にディスコ好きなフリークや遊び人といった属性な方々です

お店スタッフの方も

「俺サーファーじゃないけどお店の方針で仕方なくそれっぽくしてるんだ」

と恥ずかしげに打ち明けていた事印象深く覚えています

その時代のトレンドを最大利用するのがディスコ営業のの基本

いくら踊りが上手くてもBLACK MUSIC好きであっても

時代錯誤のダンサー風情や流行から外れた客層ばかりでは

流行の最先端であり続けるディスコとしての面目は保てない

やはりFINE少女やJJ嬢で店内を膨れ上がらせたいはずです

六本木「ジェスパ」「キュー」赤坂「シンデレラ」は

シティサーファーも集う時の代表的BLACK系DISCOでありました

サーファー時代でBLACK系DISCOの存在を始めて知ったような人が

よく勘違いしているパターンが「サーファー=BLACK」です

BLACK系DISCOの歴史はもっと古く一過性のサーファー時代の比になりません

赤坂「ムゲン」六本木「エンバシー」を知っているのならば

そんな浅はかな事は口出せないはず

サーファーディスコはROCKにPOPSにNEW WAVEにDISCO MUSICを

満遍なくオンエアするところです










飽和な1981年という時代


サーファー文化の大衆化が始まってしまった時代です

新宿にも「B&B」「PUKAPUKA」といった本格サーファー系の

ディスコが登場しました

他にもサーファーやトロピックを意識したインテリアが急増

深夜だけコアな選曲になるディスコもあり

六本木からフリーク達が流れてくる現象も起こりました

六本木では「ラジャ・コート」がオープン!

男性のファッションには変化が現れた年です

ロン毛をバッサリして口髭も剃り落とす方が増え

象徴であったエンフラを始めとする

フレアーラインが廃れ始めてきました

いいかげもう履き飽きた感とでも言いましょうか?

代わってディナージーンズや

ブーツカットジーンズが台等してきました

ウエスタンシャツに皮の巻きスカートも人気

夏が終わる頃には

ブランドトレーナーやTシャツ、パーカーなど乱立してしまい

飽和状態を物語っていましたが

メジャーベースボールのスタジャンにヘルメ
(メジャーは遠い時代だった)

フード付のスタジャンなど新しいものも起こりました

一年前までは「FINE」「JJ」といったファッション誌を上手に操る方が圧倒でしたが

なんか「服だけサーファー」みたいな雑誌に操られている人達が増えていました

色白で取り合えず流行モノ着とくかみたいな・・・

時のハマトラにも飽和感があり女子高生にお下がりしてしまいました

聖地六本木のディスコでも高校生やネクタイ族

サーファー&スポーティーでない人やら

大学に入ってから慌ててデビューしたような大学生や上京学生

ナンパだけしか頭にない陸サーファー&似非テニス野郎など

ディスコ店内の空気はおかしな方向へ流れていました

それでも六本木神話が続いた要因として

「ジェスパ」「キュー」といった80年代のブラックディスコが

オープンした事があげられます

サーファー&トロピックブームを活かしながら

80年代のブラックミュージックに徹した選曲で

コアなお客を集めていました

この時期のブラック系DJは選曲もMIX技術も高く

そういった部分だけに魅せられた取り巻きや

ヲタクっぽい傍観者も多くいました

DJになりたいのだけどなれない人とか

重たいFUNKだけしか興味のない人など

同好の種が濃くなれば排他的意識に流れるのが人の性でしょうか

当時も知らずして歌舞伎町偏見も

このあたりから強く発信されていたと思います

残念ながら現代にもこういった風評は継続されています

雑誌で取り上げられるような人気店では

常連お嬢様女子大生のテリトリー意識が露骨にありました

(ちょっと目立つ)見知らぬ顔が店内でうろついていたりすると

「何?コイツ!」といった強烈なメンチビームを

挨拶代わりにお見舞いされてしまいます

然らばダンスの腕で黙らせるしかないのです

そんなこんなで1981年はブラコンの豊作でヒット曲が沢山生まれました




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次世代へ1982年という時代


78~79年とは別物な時代です

男性のロン毛やフレアパンツはもう完全に時代遅れ

一世を風靡した「JJ」系ニュートラも見かけなくなり

以前のサーフブランドもファッションとしては着れない時代になってきました

替わってカルバンクラインなどのデザイナーズジーンズや

先細のサイクリングパンツやペダルジーンズ

原色のペインターパンツに

赤のコンバースなどが最先端のファッションでした

ディスコでは客層がミーハー化してしまい

デビューしたての上京学生やサラリーマン&OLが目立ち

未成年もかなり混ざるようになっていました

六本木では

「ウィズ」「キスレディオ」「アラジン」といったディスコがオープンしました
キスレディはリニューアル

「ナヴァーナ」「レオパ」「パシャクラブ」「ラジャコート」といった

最先端のディスコはオシャレな客層を辛うじて保っていました

この頃から六本木でディスコ数店舗を貸し切りにし出入り自由の

フリー・ラウンドな大学生だけの合同パーティーがよく行われてました

遅れてディスコデビューした学生相手に商売を始めるイベント屋学生の登場です

こういった流れはバブル期まで栄え続け学生社長までなった人もいるようです

この時代のファッションは

夏頃には最先端の男性はモミアゲカットのテクノヘアーをしていました

女性はフロントをキツク部分パーマで下をストレートにした

ヘアスタイルが人気ありました

選曲は好事家達が好むようなFUNKは激減し

アーバン系のブラコンや軽いNYサウンドがトレンドとなっていました

特にマイナー系のブラックは

「ジェスパ」「キュー」といったお店でしか受けなくなってしまい

代わってメガトン、モビーディックレーベルといったHI-NRGサウンドが

若き六本木常連の子達の最先端ディスコミュージックとされていました

秋頃にはHIP-HOPの先駆け的ミュージックも登場し

着実に次世代への移り変わりを実感させられました


ある意味で音楽趣向の共存を余儀なくされた時代ですが

共存免疫のない世代が易々と受け入れるはずもなく

BLACK愛好家達の抵抗は凄まじいものでした

しかし時代は着実に次の文化へ歩みを進めていたのです

「SNF」時代から知っている私にとってテクノカットの流行は

ちょっとした衝撃でもありました

1年前までブラックでガンガン踊っていた男の子達がモミアゲバッサリ・・・

結局1年後には人気曲もダンススタイルもブラックから遠ざかって行くのでした

原点回帰か

流行ってなんなのでしょう?





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世代交代の1983年という時代


サーファー時代終焉のとどめの年です

最盛期を知っている人達はディスコを引退し

ハイエナジーボーイというDCブランド少年や

テクノサーファーギャルといった

初期HIP-HOPのブレイクダンサーが中心の時代に代わっていました

シルエットを大きく見せるブルゾンジャケットに先細のスラックス

原色を基調とするイタカジが主流です

映画「FLASH DANCE」の影響もあってでしょうか

レッグウォーマーやレオタード族といった

ディスコとは毛色の違うダンスを嗜む方々が急激に増えだしました

派手なダンスで場所を取るので(エアロビもいました)

ブレイカーとの異種ダンスバトルも時折ありました

サーファー時代の面影を引き摺っているようなディスコはありましたが

それは流行交代の狭間に見られる残像現象です

例えばこの時代に店内にサーフボードや

トロピック観葉樹のインテリアがあったとしても

店内モニターでサーフィン記録映画を流していようが

悲しい残像現象にしか映りませんでした

もちろん83年という時代にディスコデビューを果たし

DCブランドにもブレイカーにも行けない

次世代のサーファー達がいた事も事実です

私が体験した創生期を体験させてあげたかったと思う

筋金入りのサーファー大好き次世代FINEギャル&ボーイ達の

熱きメッセージは無視する事は出来ません

運命によって世代がズレてしまった事は悔やまれますが

彼等が想う83年という時代はそれはそれで尊重したいと思います

巷でよく引用される83年に一世を風靡した


「オールナイトフジ・オールナイターズ」はこの時代の産物であります

但しクリスタル族や最盛期の女子大生はもっと上のオネーサン達であった事

是非とも知っておいて欲しいです


流行のディスコミュージックにおいても

60~70年代からの「SOUL&FUNKY」というスタイルは終焉してます

HI- NRG. 、UK 、ELECTRIC BEAT、 HIP-HOP、 BREAK DANCEの世代であり

その後のEUROBEATやDCブランド最盛期の括りがより近いものと思います

忘れてならないのがこの年大量に放映された「MTV」

有り難がる人も沢山いましたが

何度も得意げに同じアーティストのプロモV見せられたら

さすがに食傷起こします

(海外のほうでは物議をかもしましたが)ブラック系はまず流れないし

その時代の新譜ばかりという事もあって

私と同世代の大方は「マイケル」以外は興味の対象外で

今でも新し過ぎて懐かしさを感じる事はないと思われます

色々な意味で大きく動いた83年では

少数のFINEギャル&ボーイ達を尻目にDCブランド族達の文化が築かれ

スポーツや日焼けブームは過去の流行となり


カラオケ、プールバー、ファミコン、家庭用ビデオデッキ、先のMTV

12”コレクター、自宅DJといった

インドア的なモノに流行とヒットが移り変わってきました


次世代感性への大きくな区切りがここで発生しています

中には時代を跨いでお立ち台やクラブ期にまで関わった方もいるようですが

ファッション、音楽、トレンド、スタイル全てが変っているのが事実です

因みにワンレン、ボディコンの時代は84年以降の文化です

本当の意味でサーファー時代の文化は静かに幕を降ろしたのであります

エイティースはひとつでは決して括れません





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2つの異なる思惑


サーファー系とニュートラ系

スポーツカジュアル

全てひっくるめてサーファー文化と称してますが

それを快く思っていない人達もいるようです

ひとつは例のクリスタル族のモデルとなった人達に代表される

リッチ、ブランド、ステータスといった上流社会志向な人達です

女性は高級ブランド満載の「JJ」をバイブルとしニュートラを好み

一応スポーツもこなすようですが

傷だらけの砂まみれになるサーフィンは避け

平民で溢れる近場のビーチなど眼中になく

ブランド水着を颯爽と着こなし

まだ当時ではあまり知られていないセブ島やモルジブの高級リゾートや

都内の一流ホテルのプールで日焼けをする(モチロン野朗のエスコート付き)

または上品にテニスやゴルフ、スキー果ては乗馬を嗜むのが主流

更に踏み込みますと「仕掛け人」と呼ばれる人達が見え隠れしています

彼等の思惑通りの結果となったのかは知りませんが

サーファー文化の基盤を作り上げたという自負もされているようで

ディスコ、音楽業界でもその影響を今でも及ぼしています

ディスコ感性も私など平民の遊び方感覚とはかなり違い

ドレスコード制に着目したり
(ネクタイ、ジャケット着用、アイビー、トラッド大歓迎)

アメリカでのヤング・エグゼクティブを手本にしているようです

男同士でニューダンスやファンキーダンスに没頭などナンセンス

汗だくで踊り狂うギャル達には目をそむけ

旬の曲でフロア流れ込む大衆を鼻で笑う

音楽では濃いSOUL, FUNK, RAPといった俗物的な曲は一切パス

都会的なAOR, FUSION, 洗練されたブラコンなどトレンドとしていました

当時のブランド私大生達をバックアップしたり

彼等の聴くトレンド音楽というイメージ戦略に打って出ていました

最近こういった曲ばかり深く掘り下げているコンピCD見かけますが

かつての同朋達へのメッセージの意味もあるのでしょうね?

やたら入場料が高くて誰も踊っていないような再現イベント行って

何か違う?と感じた方も多くいらっしゃると思います

多分これらはステータス志向が影響されているのでしょう

ステータス族は都会的な曲を聴きながらオシャレな会話を楽しむのが基本

フロアに飛び出てフィーバーなんてしてはいけないのです

踊り(ニューダンス)自体にこだわりもないですし

SOULやFUNKYといった意味すら興味がないと思います

そんな事よりも

当時はリッチなお嬢様を相手に口説くに必死のようでした

対して高級なブランドで身を固めたお嬢様方も

当時の3高(高身長、高学歴、高収入)なお坊ちゃま狙いで

鼻持ちならぬ駆け引きが繰り広げられていたようです

当然、性欲剥き出しで行う低俗ナンパとは違うそうです

その様をディスコというより社交会場、高級サロンと皮肉る人達もいました

NYの高級ディスコでは当然の光景なのでしょうが

それに倣うのは土壌の違うような気がします

因みにリッチな方全てがこのような遊び感性を持っていたわけではありません

暇があれば海に入り髪は潮焼けで変色し

ディスコに来ればニューダンスに没頭し汗だくで踊るサーファー友達も多くいました

最近クリスタル族の意味を本当に知っていての事か

ディスコ用にカテゴライズしているのを見かけます

言葉だけがひとり歩きし時代の大きな象徴のように思われがちですが

これは一部のハイソな方々のお戯れに過ぎません

サーファーとスポーツカジュアルにトラッド、アイビー、ニュートラ

表向きにはひとつの流行としてまとまっているようですが

根深いもので「サーファー文化」というひと括りでは収まらないのも事実です

但しディスコという風俗に関しましては庶民的な感性が主流

別コーナーでも書かせていただきましたがここは日本

ディスコの風土が根付いています

ダンスと汗臭い音楽と俗物な歌は必要不可欠と思います

サーファーディスコは

一部のステータス族の思惑だけでは

この文化最盛はあり得なかったという事です

仕掛け人とそれをアレンジして行く若者達

双方がぶつかり合い、混ざり合ってディスコの流行は作られて行くのです

私は大衆ユーザー

それでも等身大で楽しめた実感は良き思い出として満たされています

次項では私と同じ遊び方をしたであろう

もう一方のディスコ事情をお話しいたします




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☆ディスコに来たなら踊らにゃ損!


ディスコを社交場代わりに利用してる人達に対して

根っからの遊び好きで楽しい事があるなら

隅々まで遊んでしまおうと考える

生粋のディスコフリークがいます

遊び人が行くと言われた時代から

一般人や大学生に客層が変わってきたディスコでは

ダンスをするという部分に遊びを見出し

若さをぶつけるようになりました

次々と登場するニューダンスに対応し

いち早く踊りこなし

かっこいいバリエーションを考えたものです

スポーツ好きの連中が集った時代では

こんなダンス事情に目が行かないわけがありません

最先端の曲に合わせて最新のダンスで踊る

これがディスコの醍醐味です(特に日本では)

ファッションではブランドや着飾る事にこだわる

ステータス族とは違ったオシャレを楽しんでいたものです

夏場では海帰りのピーサンに短パンギャルや

テニスやローラースケートやフリスビーの帰りでしょうか

タンクトップにトレパンといった出で立ちの

スポーツボーイ&ギャルが沢山店内にいました

こういった光景を汚い、ビンボーくさいと見るか

逆に当時のサーファー最盛期の特徴として好感がもてるか

ディスコへの接し方が大きく分かれるところだと思います

スポーティーなトレパンファションの便乗か?
夏場の着たきりパジャマ兼用にしているような
不潔短パン野朗が街に出歩いていました
色白で汚い長髪しかも臭い


私個人は動き易い踊り易い服装が好きなので

ラフでワイルドなサーファーファッションに愛着がありました

サーファー系でドレスコードを設けるところには

ステータス志向の意思が働いているように思います

ステータス族とは別に踊らない(れない?)人達が

いたのも忘れてはいけません

「ナンパ専の陸サーファー」と「曲ヲタク」

選曲批評家気取りのDJウォッチャーといった人達です

私達の時代はいくらでもお店を選べる時代でした

雰囲気や客層、選曲が気に入らなければ他を探すなど

せっかく良い時代のディスコに行きながら

踊らない(踊れない)ようでは

真夏の海に来たのに水着に着替えず海にも入らず

日焼けも避けるというのと同義

ディスコという遊び場を

本当の意味で満喫されていないように思います

「お店に行っていたよ」という話しはするが

DJウンチクや曲にやたら詳しいが

踊りの話とか

フロアや照明の効果など

細部の話が出来ない噛み合わないのが

こういった人達なのでしょうかね

偶然流れていたラジオやTVトーク番組で

芸能人の方が昔ディスコに行っていたという話題を

幾度となく耳にした事がありますが

殆んどの方は

「行った」というところから先の話が全く出てこないです

実際好きで踊りに行っていたという

某タレントの方は

フロアの形状や周囲の状況、ダンスの種類まで

事細かくく語っていました

この差はなんなのでしょうかね?

下手、上手いは関係ありません

多種多様な曲に合わせて踊り

自分のフェイバリットを見つける

これが若さから出る自然な行動であり

ある意味スポーツでもあったのです

私サイドから一方的に表現していますが

ディスコとは別の付き合い方してた方々

結構いると実感させられました





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★お嬢様女子大生vs.ヤングOL&社会人


サーファー時代の華であったのがスポーツギャル達

当時健康的といわれた黒く焼けた素肌

潮焼けしたワイルドなロングレイヤーの髪

多くのギャル達が目指していた姿でした

時代はお嬢様女子大生のみを持ち上げ

特にブランド私大生ならば天下無敵

しかしギャルは女子大生ばかりではない

スポーティーなヤングOL&社会人達を忘れるべからず

社会人が全員サーファーやスポーツギャルであったとは言いませんが

中にこの時代を彩ったトレンドリーダーがいた事は事実です

サーフィンも上手けりゃテニスも上手い

スキューバーだってやっちゃう

会員制のプールでバリバリ泳ぐ

サーファーダンスもかなり上手い

しかし世の男性は女子大生カラーに洗脳されおり

一緒くたに見られる事を非常に嫌っていたのです

彼女達は親から独立しているプライドがあり

社会人としての自負もあります

彼女達にはお嬢様女子大生やブランドお坊ちゃま達が

どう映っていたか解りませんが

同じ時代に生きながら絶対に共存したくないのが本音のようでした

華の女子大生が溜まるお店は敢えて避けていたのも事実です
(当時の新宿ラジオシティや銀座シーザスパレス六本木エルコンなど)

気質によってはちょっとアルコールが入ると

勢いで昔が出てしまうOLさんもいましたっけ

ある意味で双方共高校時代は触れて欲しくないでしょうが

大学デビューのお嬢様方よりも

高校デビューが圧倒的に多い社会人のほうが

遊びに長けていました

但し両者共に時代遅れのヤンキーは苦手でありました





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☆マニュアル(ミーハー)化の影響


サーファーディスコが一般化されてから(’81以降)

ファッション誌に刺激されディスコに行き出したような

マニュアル人間が急増しました

(少し遅れた)ファッション誌をコピーした着こなしで現れ

有名曲でしか踊らない(踊れない)

要するにミーハー人間達の大挙襲来です

ディスコも生き残りに必死で客層よりも客数を増やすほうに

力をを入れてしまい

マニュアル風潮がディスコに全般に蔓延してしまいました

当然DJの選曲にも影響が及び

70年代従来の「どんな曲がかかるんだろう?」という

ワクワク感はさっぱり感じられなくなってしまいました

ヒット曲さえ流していれば満足なマニュアル客層に合わせる

選曲を自然に強いられるようになってきたのです

これはDJの意思に関係なくフロントが選曲を管理するようになってきた

最悪なる状態の始まりでした

私の知っている最盛期ではお店を選ぶ条件として

「選曲組み立てにセンスがある」

「新譜が早い」

「マイナーな曲もちゃんとかかる」

「ツナギの技術もしっかりしている」

というのが仲間内でも言われていた条件でした

それがマニュアル世代の選択は

「ミーハーな曲だけかかればそれでいい」の1本ですから

DJもやる気が失せてしまうでしょう

長年培ってきたディスコ選曲の秩序崩壊の始まりです

選曲のヒッパレ方針で「イケイケ」というスタイルを確立したようですが

失ったものはあまりに大きいと思うのは私だけでしょうか?



マイナー曲もひっくるめてディスコなのである
皆がヒットの曲にしか興味が持てなくなれば文化は崩壊する
DJの存在意義すら奪ってしまう

より多くの曲を提供する義務や
未知数の新譜からヒットを誕生させるなど
小細工は無用のものに

音楽の発信源としての役割は封殺されてしまった







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あとがき


私の個人的なSNF時代~サーファー時代全景の体験談を

フロアの中からの光景も交え語らせていただきました

人の記憶は脆いようでして月日が経つにつれて曖昧になってしまいます

自分の記憶がはっきりある内に書き留めておこうと思った次第です

ディスコ文化も例外でなく

時代が進むに連れての大衆化の波はどうにもなりませんでした

それが嫌なら同好同種の世界を求めるしかないないのです

ある程度音楽知識を持ち合わせた者だけが集うクラブ・スタイルへと

変わっていったのも自然の成り行きだったのかもしれません

その副産物としてヲタク人間や知ったか風情などが

増えてしまったような気がします

運命によって80年代のサーファーしか体験出来なかった方々には

70年もあって素晴らしい時代であったのだよ(共存の時代など)

と言う事知っていただきたかった思いがあります

非常に短い文化でしたが色々な流行が流れて行きました

流行の始めと爆発したエネルギーの凄まじさを目のあたりにした70年代

完成されてしまってからの80年代

どちらも抜きではサーファー文化は成立できないのです


ディスコでは共存できなかった同期生の皆さんへ

当時流行のエレガント&スポーツファッションをしていた人は

ディスコに行っていなければならない風潮とされてしまっていますが

決して押し付けの定義ではありません

ディスコ通いはひとつの遊びの選択肢にすぎません

根本的に夜のお店には行かないJJ系お嬢様やハマトラ少女

波乗りやテニスだけに青春を捧げたスポーツマン&ウーマンも大勢います

別のかたちで時代を通過しただけです

同じ時代の文化、流行を過ごした同期生に変わりはありません



最後に

時代が進むにつれて色々なものが堆積し

本当の姿が失われてしまう事があります

現代は個人主義最優先の時代

過去がどうあれ今がコレならそんなの関係ないという考えが大半

虚弱なサーファー文化はこういった思考にもみ消されてしまい

何もなかったように振舞われるのがオチ

それならばいつまでも真実を声に出して行こう

うちらにもうちらの流儀と文化と経験と感性があるんだと






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